9日(土) 第1話   今日から書き込みます。美空ひばり公演

10日(日) 第2話   吉例 顔見世 の話

11日(月) 第3話   監事室 制度

12日(火) 第4話   御園座 激動の40年代

・      第5話   「ちゃん」と呼ばれて

13日(水) 第6話   芝居の話は、一休み

14日(木) 第7話   劇場制作への道

15日(金) 第8話   「芝居づくり」の灯を消すな

16日(土) 第9話   生田スタジオ 夜間撮影

17日(日) 第10話  明治座への御恩

18日(月) 第11話  息抜き(インターネット)

19日(火) 第12話  話題作を御園座に

20日(水) 第13話  里見浩太朗 初座長

21日(木) 第14話  話題作を御園座に

22日(金) 第15話  杉 良太郎特別公演

23日(土) 第16話  楽屋訪問(朝丘雪路さん)

24日(日) 第17話  美空ひばり最後の舞台公演

25日(月) 第18話  近松再演 客席に大雪

26日(火) 第19話  日光陽明門 名駅に

27日(水) 第20話  92才の名優

28日(木) 第21話  杉公演自主制作そして明治座

29日(金) 第22話  遠山の金さん お悩み相談

30日(土)       御園座 芝居の話 6月 目次

第22話

北町奉行 遠山左衛門尉さま 御出座

奉行遠山  今回の悩み事相談人は御園人とあるが、そちはどのよう
な商いを致しておる。

御園人   ヘェ、芝居小屋で働いておりやす。

遠 山   して、その仕事は

御園人   頭取と言うか、奥役と言うか芝居を大入りにする全ての事
をやっております。

遠 山   今回の悩み事は、いかような事じゃ。

御園人   ヘェ、近頃流行っておりやす「矢風屋」の公開掲示板の事
で少々お訴えを・・・・

遠 山   誰でも己の思いを書き込めたり、相手にいち早く書簡を届
ける事ができる「目居留」とか「舞呂具」とか申す物じぁな。

御園人   ヘェ、その通りで。
矢風屋は、その大元締めで御座いやす。
あっしも小屋者、流行ものに乗り遅れてはと早速に申し込み
致しました。
そしたら、ずいぶん長たらしい名前をくれやしたので、それ
では皆様に見てもらえないだろう。役者でも音羽屋! 成田
屋!中村屋!って屋号がありやす。
金さえ出せば、短くできると書いてありやしたので、手続は
致しました。ところが、そいつがなかなか替わりません。
お奉行さま 何とかなりませんか・・・・

遠 山   いい加減にいたせ。
そのような訴えを、よくもこの遠山に致したな。
矢風屋も手広く商いを致す豪商。
そちのような道具を使いこなせず恨み言を言う やからが多
いと聞いておる。
もう一度、矢風屋の出店に聞いて見るがよかろう。

その方、他に悩みは無いのか。

御園人   ・・・・・・・・。

遠 山   もうよい。  この件、一件落着!


この話、今の私の悩みです。何方かお教え下さい。









第21話

62年4月 御園座五回目の杉良太郎特別公演は、御園座の自主制作公演に切り替わりました。演目は、「清水次郎長」と「遠山の金さんー江戸のわらじ唄ー」を再演。

劇場自主制作は、長谷川真弘社長の念願。ましてや東西の劇場において真摯な姿勢で芝居に向き合う杉さんの公演が御園座の劇場制作によって進められるとは・・・・社長はもちろんGOサイン。

しかし、「清水次郎長」は杉さんが昭和48年明治座初公演の時に中江良夫先生に書き下ろして頂いた思い出の作品。月日も経っており初演時のキャスティングは出来ず当然共演陣は組み直し、杉さんとの打合せを重ね岡田英次さん・安井昌二さん・山田吾一さんに参加頂いた。

再演とはいえ熱のこもった稽古が続き、初めてプロデューサーとして東京稽古から立ち会った私は、全てが勉強させられる事ばかりでした。

初日も無事開き、数日後 東京から大変なニュスが飛び込んできた。来月の明治座公演が美空ひばりさんの緊急入院により出来なくなると・・・・

制作会社東宝と明治座において数々の代替案が検討されたが、どの公演もひばり公演に集まったお客様には・・・・と行き詰まっていたとの事。

突然、私が座長部屋へ呼ばれ杉さんから「明治座が困っている、今御園座で公演しているこの一座を演目もそのまま来月の明治座へ持っていきたい。協力してくれ」と・・・・

明治座からは、私が初めて自主制作した時に大変お世話になったH重役が駆けつけられた。

御恩返しはこの時と、出演俳優の翌月スケジュール押さえから御園座大道具の搬出手配と喜んでお手伝いさせて頂きました。

入院された美空ひばりさんも、これで安心されると思え・・・・

私にとっては、忘れられない公演となりました。


第20話

今日は、公休です。

「御園座 芝居の話」も皆様の励ましで筆を折ることなく続けています。


先日、久しぶりに御園座でじっくりと芝居を観劇できました。

笠原章さん率いる劇団若獅子が、「国定忠治」の通しを上演。久々に新国劇の芝居が見えると客席は大入り満員でした。

出演者も辰巳柳太郎・島田正吾大先輩との舞台を懐かしみ、それぞれの役を演じておられた。

主演の笠原章さん演じる国定忠治の大熱演、客演の緒形拳さん・朝丘雪路さんのご馳走。
そして清水彰さんが演じた川田屋惣次。カーテンコールの挨拶で清水さんが92才と知った時のお客様の驚き・・・・

夜の部開演前に私は清水さんの楽屋を訪問。

実は、御園座来演の直前に奥様が亡くなられ、この日は東京で葬儀がなされていることを知っていました・・・・

「新国劇代表作のこの芝居、僕は忠治以外は全て演じているんだ」「お芝居 観てくれるね、観てくれるね」
何時もの芝居好きな清水さんにホッとしました。

舞台の清水さん何時もとは違い、川田屋惣次は天国の奥様に届けとばかり「セリフ」をうたい上げていたように思えたのは、私だけだったでしょうか・・・・・

清水彰さんの活躍に、これからも応援させて頂きます。

第19話

昭和61年7月 松平健さんが御園座に登場、人気テレビ時代劇「暴れん坊将軍」の上演に客席は大入り。

この公演で御園座舞台史上、最も大きな最も豪華な舞台セットが組まれた。

御園座の舞台の高さは22尺(約7m)その高さ一杯に日光東照宮の陽明門を作り上げた。

舞台の事なので客席側半分を忠実に再現、何層にも渡る軒下の組木・彫刻等は、発砲スチロールを削り出し、その上に紙張り彩色した手の込みよう。

道具調べに組み立てた時は、皆 その大きさと豪華さに息を呑みました。

開幕して、大柄な松平健さんの将軍吉宗が陽明門の前に立てば、客席からは大きなどよめきと大きな拍手が贈られた。

あまりの出来栄えに岡崎市より、翌年開催される徳川縁の葵博覧会に飾りたいとの申し入れが、岡崎市の担当者は市長がどうしても出展させたいとの強い要望があると言われるが・・・・

私は、舞台棟梁と相談、まず御園座の舞台からどのように運び出すのか、展示は屋外、泥絵の具で描かれた舞台美術は大きな屋根で覆わなければならない事。難問は山積み、丁重にお断りを入れました。

だが、市長からは「舞台から運び出し、バラバラになった物でも頂きたい」と・・・・

そこまで言われるならと、長谷川真弘社長に相談。社長は「御園座の舞台美術を皆様に見て頂ける絶好の機会」と岡崎市への寄贈を決められた。

公演楽日までに何回も打合せ、博覧会現地の展示を変更しJR名古屋駅にて葵博の広告塔にすることに

深夜の最終列車が出た後、名駅コンコースは閉鎖され、そこに大型トラック10台に積み分けられた陽明門が・・・・

御園座の大道具方が、手際よく組み立てていく、そして早朝一番列車が入る前にコンコースにそびえ建つ陽明門を見事に作り上げました。

其れはまさに木下藤吉郎が築き上げた一夜城のような出来事でした・・・・

第18話

昭和60年12月に、3年前大好評を博した「近松心中物語」の再演が決まった。

この作品は、近松門左衛門の「冥途の飛脚」「ひぢりめん卯月」「卯月の潤色」を、作家秋元松代が一本にまとめ上げ脚本に、そして蜷川幸雄の演出が加わり不朽の名作となりました。

しかし、いくら良い作品でもまったくそのまま再演したのでは・・・・蜷川さんも良いアイデアを模索している時でした。

とんでもない事を言い出した人が、その人は当時蜷川作品を担当していた東宝演出部Y氏。

Y氏と御園座のMプロデューサーそして私の三人が、御園座地下の寿司屋で食事をしている時でした。

初演の完成度の高い作品に小細工をしてもかえって作品を悪くするだけでしょう。あとは、思い切って客席に雪を降らすか?

軽い会話の中から、このアイデアは飛び出しました。

飛び付いたのはMプロデューサー、私は大詰クライマックスの芝居の途中にお客様の上に雪が降り出す・・・・客席はザワメイテ芝居の邪魔になるのか判断出来ませんでした。

東宝のY氏は「イケル イケル ゼッタイニイケル」蜷川さんに提案すると・・・・その晩は三人、大いに盛り上がりました。

客席に降り注ぐ雪は、大詰心中場の中にお客を引き込み、臨場感あるとても神秘的な世界を創り上げ、想像を超えた反響に・・・・私も大感動

第17話

昭和60年7月 御園座創立90周年に、7年ぶりに美空ひばりさんを迎える事が出来ました。

その間に、次々と起こったご家族の不幸。しかし、お客様の前では常に明るく、力強く、見る人に元気を与えられるひばりさんでした。

監事室には、ママ(ひばりさんのお母さん)はもう座られて居ません。でも私は、何時もそうであったように監事室から毎日、ひばりさんの舞台を見守り続けました。

演目は「艶姿弁天娘」、歌舞伎の弁天小僧を女に仕立てた作品です。

大詰め前、大屋根の捕物大立ち回りは、いつも舞台ソデに付きます。既に腰は相当に辛かったと思いますが、一度も弱音は吐かれず気合を入れて殺陣の場に・・・・そして一番の見せ場、大屋根ブッカエリが始まります。ひばりさんを乗せた大屋根が90度舞台裏側へ回転する大仕掛け、歌舞伎で使われる手法ですが、お客様は大喜び。

体への負担は、大きかったと思いますが千穐楽まで、大丈夫 大丈夫と見事に勤め上げられました。

翌年は梅田コマ劇場に出演。そして、62年5月には明治座にて公演を行なう予定でしたが、皆さんご存知のように公演を前に緊急入院されました。

私は何時までも、大屋根に凛々しく立たれたひばりさんが忘れられません・・・・

今日は、ひばりさんの命日です。     合掌




第16話

今日(19.6.23)、御園座は劇団「若獅子」(笠原章さんを中心に新国劇を愛する人達)の公演。
国定忠治の通しを上演し、特別出演に 朝丘雪路さん、緒形拳さん、清水彰さんが参加されていました。

久々に朝丘さんにお会いできると楽屋を訪問、何時もの笑顔で迎えてくれました。
朝丘さんは、御園座の舞台に数多く出演されていますが、私が朝丘雪路特別公演をプロデュースし「芝居」と「日舞ショー」の朝丘さんならではの公演を実現できたのも朝丘事務所のK氏との出会いからでした。

K氏は、この業界では知らない人はいない程の芝居通、マキノ雅弘映画監督に師事し、その後映画スターが舞台へ参加すると共に彼も活躍の場は舞台へ

私がプロデューサーとしてまだまだ自信も無い頃、朝丘事務所に籍を置いたK氏よりホテルニューオオタニで行なわれた朝丘さんのショーに招待された。昭和55年頃と思います。

外人ダンサーに囲まれ洋舞を踊る朝丘さん。そのハイカラなショー構成に驚き魅了された。

ショーが終わってホテルの喫茶にて朝丘さんとお話する事に、名古屋との今までの御縁、自分の公演を持って舞踊ショーをお客に見せたい事など、若輩の私に熱っぽく語られました。

将来 この人を御園座に迎えたい。

この思いが実現するには、それから8年・・・・

昭和63年から7年間 朝丘雪路特別公演が御園座にて上演された。

第15話

杉良太郎さんが初めて御園座の舞台を踏んだのは、昭和47年7月
NHKテレビ時代劇『文吾捕物絵図』、民放『水戸黄門』『大江戸捜査網』など 彗星のように現れたスターの舞台公演となった。

世間は、突然現れた若手時代劇スターが、年に似合わず着物の着かた、殺陣の上手さ、時代をわきまえた所作が出来ることに驚かされた。

後日、私は杉さんから「親父が興行の仕事をしており、小さい時から旅一座の芝居を毎日見ており、楽屋が遊び場になっていた」とうかがい大納得出来ました。

人気は急沸騰。明治座、新歌舞伎座の舞台公演を始め、テレビは何作もの時代劇を平行して撮影する超多忙なスケジュールが組まれて行きます。

やっと御園座に、杉良太郎特別公演の幕が開いたのは昭和58年8月の事でした。

大阪新歌舞伎座制作により、演目は昼の部「花と龍」、夜の部「ふりむけば夕日」と杉さんの魅力を存分に盛り込んだ作品を上演。

リアリティーと様式美を織り込んだ舞台に、見巧者名古屋の客も真剣に見入っておりました。

その後、御園座が杉公演を自主制作、私がプロデューサーとなり座長と長くお付合いすることに、当時を振り返って杉さんは「大阪の客席との反応の違いに最初は少し戸惑った」と話された。

公演を重ねる度に、客席も舞台も程よく溶け合い、数々の名作を創り上げて行く・・・・・・

第14話

昭和57年4月 御園座にて上演した「近松心中物語」は、54年の東京帝国劇場にて初演。その舞台成果が認められ芸術大賞を受賞した作品です。

御園座公演実現には、私の上司のMプロデューサーが、初演の帝劇公演を下見。
是非にも御園座へと当社の営業に話をすると、客の馴染みが薄い新劇の世界。蜷川幸雄・演出、平幹二朗(俳優座)太地喜和子(文学座)の主演作品に反対の声も上がった。

ならば、先々代長谷川社長へ直訴 「この公演で損をしたら、私の退職金はいりません」と大見得をきったとの事。

社長は、「M君 君の退職金はいくらと思っている・・・」「だが、その心意気は良い。 よし、やろう!」

いよいよ、4月公演
舞台稽古は、今までの御園座では見られなかった、独特な蜷川ワールドが緻密に創り上げられていく。

通し稽古の仕上がりの良さに、私は幕が下りてもしばらく動くことが出来ないほど感動していました。

「近松心中物語」~それは恋~
スタッフ  秋元松代 脚本、 蜷川幸雄 演出

配役  忠兵衛・平幹二朗、梅川・太地喜和子、お亀・市原悦子、与兵衛・菅野忠彦

他出演者  山岡久乃、金田龍之介、緋多景子、嵐徳三郎、辻村ジュサブロー

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