カテゴリ: 御園座の芝居づくり

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 第300話

二年前からyahooブログに掲載してきた「御園座 芝居の話」が300話をむかえた。

温泉で「・・・緩みます」などと腑抜けていないで書き込みます。

御園座の先代長谷川真弘社長が「東西の劇場が実現している劇場自主制作を取り入れなければ、御園座は将来、時代に取り残されてしまう」と取り組まれたのが、昭和47年の橋幸夫特別公演の自主制作からでした。

私は、その翌年48年から「芝居づくり」に参画。

社長(当時は制作室長)は36才、私は28才の若さです。怖いもの知らずで突き進みますが、失敗と挫折の繰り返しでした。

それでも真弘社長は「芝居づくり」の夢を諦めません。一旦は他部門に配属した私を、昭和59年再び制作部へ呼び戻します。社長は47才、私は39才、もう失敗は許されません。

若手プロデューサーへは、過去の失敗と挫折を「教訓」として教え、背水の陣で御園座の自主制作は推し進められた。

五木ひろし、杉良太郎、朝丘雪路、細川たかし、萬屋錦之介、里見浩太朗、西郷輝彦、芦屋雁之助、北大路欣也、松平健 (敬称略)の座長を迎えて御園座の自主制作黄金期は創られていったのです。

「何事も積み重ね!」です。

御園座が積み重ねた「経 験」は、受け継がれてこそ財産です。

300話を迎えた「御園座 芝居の話」にも、そんな思いが少しは込められています。

写真は、明治29年 創業時の御園座です。

日本一、芝居が楽しめる劇場を造りたいという先人の「夢」が伝わってきます。

第285話

お客様が「芝居」を観て一番よく口にする言葉は・・・・

「いい芝居だったねぇー」「楽しかったねぇー」「豪華だったねぇー」の褒め言葉。

「つまらなかったねぇー」「暗かったねぇー」「安っぽかったねぇー」の厳しい言葉。

お客様の芝居を観る「目」が肥えていればいるほど、劇場もお客様のメガネに叶うものを企画しようとし、相乗的に舞台の魅力を創り出して来た。

しかし、最近はお客様にも劇場にも変化が起きている。

私のブログ「御園座 芝居の話」にも書きましたが、昭和四十年代に商業演劇は新派・新国劇などの劇団芝居から、映画俳優・歌手を座長としたスター芝居へ大きく変わりました。

スター座長を支えたのは劇団で鍛えたスタッフ・役者の面々。

座長には当代の人気スター、芝居は劇団財産の名作を惜しげもなく提供し「いい芝居」を楽しく豪華に観せたのです。

それは劇団の芝居で目の肥えたお客様さえも、充分に満足させるものでした。

それから何十年、劇団の芝居を観ていたという客も殆んど居ません。
劇団に在籍した役者も随分と高齢になっている。

劇場の社員においても劇団芝居を観たことも無いスタッフばかりです。

お客様は受身一方の観劇に慣れてしまい、劇場も「客の声」が聞けず手探りで作品提供をしているような状態が続いている。

脚本の出来上がりを作家にお任せして、豪華俳優陣だけでは劇場に客は戻ってこないのでは・・・・・

ある座長と公演企画の話をしている時、座長が「劇場はこの企画が当たらなくても十二分の一が傷付くだけ、しかし役者は毎回が役者生命を掛けた勝負」と私を見据えられた。

私の心に芽生えた「慣れ」を見抜かれての言葉。

それ以後・・・・担当する座長には、自分の 芝居を観る「目」を信じて、座長にどうしても演じて貰いたい役を探し、脚本への提案をさせて頂いた。

座長もプロデューサーも真剣・・・良い時代でした。

第235話

商業演劇の興行会社は、歌舞伎・新派の松竹株式会社と女優芝居・ミュージカルの東宝株式会社が、まず上げられます。

そして昭和40年代からのスター芝居に対応して新歌舞伎座、明治座が劇場自主制作を始めます。

劇場が興行会社と同じ様に芝居・ショーを創って行く・・・・そこには新歌舞伎座・松尾國三氏、明治座・三田政吉氏という劇場社長が興行師として大きな力を発揮された。

松竹創業者の大谷竹次郎氏・白井松次郎氏、そして東宝創立者の小林一三氏も偉大な興行師でした。

劇場は客が入って儲かる物を選択する事から、客を・役者を・スタッフを育てる意識も求められます。

これは劇場という販売会社が、芝居づくりの製作会社の精神を取り入れる事になりますが、劇場に歴史が有れば有るほど難しい。

御園座も20年余もの年月を費やして、やっと御園座の「芝居づくり」を確立する事ができました。

その後、時代が変わり新企画公演などの買い公演が増えて、劇場自主制作の精神も見失われてしまった。

劇場自主制作の力(プロデューサーの力)が弱まれば、「芝居」はスタッフの物になり、役者の物になって行く・・・・・どんどんお客から遠ざかってしまっている。

6年前まで劇場プロデューサーとして御園座の芝居づくりに携わった私も・・・・まさかここまで激変するとは・・・・・

演劇評論家の中村義裕氏が、御自分のホームページ「演劇批評」にも同じようなご意見を書かれていた。

また中村氏は「7.プロデューサーという職業」と題して貴重な教示もされております。

閲覧は、演劇批評 検索・・・中村氏ホームページ → 芸を語る → 左欄「芸を語るその3「氷河期来る」1.入る芝居と入らない芝居の二極分化・・・・をクリックして下さい。(何故か? 7.プロデューサーという職業 欄をクリックしてもページが読めません)

年明け寒波が来ています。身体も心も寒さでカチカチ・・・・初めて毎日を自宅で過ごす私が「冬って、こんなに寒かった」と言えば、「夏にも同じように言ってたわよ」と返ってくる。 

職場は暖かかった、身体にも心にも・・・・・

http://www.geocities.jp/misonozaman/_gl_images_/CCF20080526_00000_2.jpg第225話

京都東山・清水寺貫主が揮毫(きごう)する漢字一文字で表す「今年の漢字」は 「変」 と決まりました。

確かに2008年は政治も経済も「変」でした。しかし予兆は何年も前から始まっており、長年に亘って歪められた方針に耐え切れずに噴出した結果と言えるのではないでしょうか・・・・・

世間ではリストラの嵐が吹き荒れています。「弱者切捨て」の先に得る業績回復には、冷たい人間関係しか残らないのでは・・・・・・

私が勤め始めた御園座は、昭和36年の火災焼失後に巨額な借入金によって二年後に複合ビルとして再建されたばかり。

当時の御園座の給与は決して高くはなかったが「会社も借金が有るから、無借金になれば・・・」と経営者も従業員も大きな希望に向かって一つになっていました。

そして先代の長谷川真弘社長は、それまで名古屋の劇場では出来なかった「劇場による自主制作を御園座は目指す」という目標も掲げられ、先頭にたって邁進された。

「御園座の芝居づくり」は私にとって人生を掛けた大きな仕事になり、波乱万丈のプロデューサー経験をさせて頂きました。

月日の経つのは早いもの社長が病に倒れ、その後会長に退かれたのが平成14年4月でした。

私もその年7月に老人ホームに赴任し、会長がリハビリを兼ねて月二回ホームへお越しになった時「芝居の話」をするのが楽しみになっておりました。

御園座の会議では見られなかった穏やかな笑顔の会長に、何十年もの「芝居の想い出ばなし」をさせて頂きましたが・・・・・

三年前の今日、長谷川会長は逝去されてしまった。良き想い出ばかり残っています・・・・・・

どんどん時代が変わっていきます。世間も御園座も・・・・・

「変革」は良かれと思って行なわれるが、後日に大きな見直しを迫られることもあり得ます・・・・・・NHK風に言えば「その時、歴史が動いた!平成14年」ですかねぇー

100年に一度と言われる大恐慌を御園座も何んとか乗り切って貰いたい。

イメージ 1第206話

役者さんにとって東京以外の劇場は、地方の劇場です。東京から離れて地方都市での一ヶ月のホテル暮らしは誰も好みません。

そんな事から製作会社は、地方出演者への歩増し(ギャラ増額)、劇場はアゴ足(宿泊費・旅費など)を支払い役者さんを迎えています。

もちろん需要と供給の力加減はあり、ランク分けもされる厳しさも有りますが、地方劇場が劇団を迎え芝居を上演するには大きな経費を負担することになっています。

大スターを地方劇場へ呼ぼうとすれば、金銭だけの問題では無くなります。

その劇場が、どれだけ熱望しているのか、芝居に対して情熱があるのか、販売体制が確立されているのか・・・・・見極めて決断される。

御園座では、公演の看板俳優が名古屋へ乗り込まれる時に、社長・役員が名古屋駅新幹線ホームまで迎えに上がります。もちろん千秋楽の帰京もホームまで見送りに・・・・・

劇団の幹部に名を連ねれば、公演の中日あたりで劇場側から社長招待の食事会に招かれます。

劇場側は社長・役員・制作部プロデューサーが、幹部役者を接待していました。

御園座の手厚い持て成しは劇界でも評判となり、次々と大物スターの公演が実現できたと思えます。

写真は、幹部招待の会食で役者と語らう私。 良き時代でした。

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